あいこの ブログ

ほんとうのしあわせを求めてDrあいこの旅は続きます

ラッスンゴレライを待ちながら

おまつり気分でハッピー

先日、巷で流行っているというラッスンゴレライの特集をしていました。

あいこさんがネットをあまり見ないせいか、実際のラッスンゴレライを完全にとおしてみたことはありません。でも、実際には流行しているということで、このバラエティ番組での特集も、1月初めからだけで、あいこさんが見ているだけでも3回目になります。と、徒然なるままに書いていますが、もう少しおつきあいくださいね

 「ラッスンゴレライ」自体の言葉には、意味がないようですが、何度も、「説明してね」といわれいるのを聞いていると、なんだか辛くなります。

 今回も特集の中で、実際のネタが流れ、ラッスンゴレライはニンニクが嫌いというヒントが出て、それについて展開していきそうでしたが、聞いているのがつらくなって、チャンネルを換えてしまいましたが、今になって思うと、実は深い意味を持っているのではないかと思い始めました。

 サミュエル・ベケットという人の演劇に、「ゴドーを待ちながら」という不条理劇があり、その後の演劇界に強い影響を与えているそうです。

 ゴドーは人の名前のようですが、それがどのような存在であるのかわからないまま、ゴドーさんは現れず、ゴドーさんを待っている人たちだけが、出演するという演劇のようです。

 わたしは、大学生のときに、本物かあるいはパロディーだったか(何となく、「コトーを待ちながら」という演題名であった気がするし、一幕だけだった気がするので、内容を少し変えたお話だったのだと思います。)をみた覚えがあります。

 なるほど、面白いものだと思いましたが、内容は覚えていません。実際に、ネットで,ゴドーを待ちながらの内容を調べても、実際に何の事件が起きるわけでもないようです。

 あいこせんせの勝手な解釈をさせてもれえれば、人生も何が起こるかわからない中で、その何かを待ちながら生きていくわけです。それが、世間の人から意味のあるものであろうとなかろうと、喜びにあふれていようが、悲嘆に暮れようが、時間は勝手に流れていって、一時的に記憶の中にとどまったとしてもやがては必ず消えてしまうわけです。

 結局は、その時に、はかなくもその存在が実にあったということだけで、他は何の意味がなくなるわけですね。

 ラッスンゴレライもきっと、そういうことなんでしょう。

 どんなに説明を求められても、ヒントは出せるかもしれないけれど(ヒントは、相対化すればどのようにでも理解できるわけですから)、実体を説明することはできないのですね。

 ラッスンゴレライ恐るべしです。

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ここまで読んでくれてありがとうございます。

投稿数を見てみたら、前回の「楽しみ伝仮名」が、じつに1000件目で、なんという記念すべきものをいい加減な投稿で終わらせてしまったと後悔して、1001目は、ちょっと哲学的にしてみました。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 合掌